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2022年5月1日藤ノ木古墳石室 オンライン特別公開での皆さまよりの「質問」への回答を掲載します
2022.06.23
スタッフブログ
去る5月1日の「史跡藤ノ木古墳石室 オンライン特別公開」では、たくさんの方に参加いただき、ありがとうございました。
遅くなりましたが、いただきました「質問」への回答を掲載いたします。
回答者は、当日のナビゲーターの斑鳩町教育委員会 生涯学習課参事・平田政彦氏です。
【質問1】被葬者は誰だと思いますか?
〖回答1〗藤ノ木古墳の被葬者については明らかではなく、現在でも誰かわかっていません。
そうしたなか、色々な方による被葬者の推理がなされていて、被葬者説については大きく三つに分かれており、①皇族説、②大豪族関係者説、③斑鳩に関係すると考えられている中小豪族説があります。
①説には、法隆寺末寺の宗源寺に伝わる絵図(宝積寺境内図)に藤ノ木古墳を「陵」として「崇峻天皇御廟」と記していることから崇峻天皇とする説があります。しかし、『延喜式』には、崇峻天皇の御陵は「倉橋(現在の奈良県桜井市)」にあるとされていて、現在も宮内庁が治定している御陵があります。平安時代にまとめられた『延喜式』にそう記されていないことや、考古学からの推定では現在の崇峻天皇陵付近に所在する赤阪天王山古墳ではないかと考えられています。また、赤阪天王山古墳の大型の横穴式石室には刳抜式家形石棺が残されていて、藤ノ木古墳の発掘調査の結果では、石棺内の二人の被葬者は骨化するまでに、同時に葬られていることが確認されていて、改葬されたものではないことが明らかとなっていますので、少し無理があるものと思われます。
このほかに、古墳研究の第一人者の白石太一郎氏や、開棺(第3次)調査において担当者であった前園実知雄氏等による穴穂部皇子説があります。『日本書紀』によると穴穂部皇子は、蘇我氏系の皇子で、敏達天皇崩御後に次期天皇(大王)に就こうと行動を起こしますが、最終的に蘇我氏の協力が得られなかったことから、その政敵である物部氏に協力を求めたため蘇我馬子に暗殺されました。そしてその翌日には、穴穂部皇子の弟とされる宅部皇子がこのことに関わっていたとされて暗殺されていることから、これら両皇子の合葬説があります。藤ノ木古墳の造営年代、大型の横穴式石室や刳り抜き式家形石棺を採用している点、大王クラスに匹敵すると考えられるくらい豪華な副葬品等から、被葬者として矛盾がないと考えられていて、二人とも暗殺という非常事態であったこととが石棺内の同性の二人埋葬の状況と状況が合ってくるとするものです。しかし、この皇子がなぜ飛鳥付近でなく、斑鳩の地に葬られることになったのかといった造営の背景が明らかではないので、この説も有力だと言われていますが、決め手に欠きます。
②説は、蘇我氏の墳墓が方墳系であるのに対して、物部氏の墳墓が円墳系であることや、斑鳩の地が、大和川右岸の交通の要衝にあったことを勘案し、当時の大和川水系を掌握していたと言われている物部氏系の関係者(※固有名詞は示されていません)とする説で、同じような推定から、物部氏との戦いに勝利した蘇我氏が支配したと考えられ、蘇我氏系の関係者とするものです。
③説は、聖徳太子の妃の一人であった膳菩岐々美郎女の出自氏族である膳氏に膳臣斑鳩という人物がいたことや、斑鳩に盤踞していたとし、聖徳太子の斑鳩への移住する背景となっていたとされる膳氏、藤ノ木古墳の所在地が古代における平群郡山部郷にあることからの山部氏、立派な金銅製馬具が出土したことから斑鳩の南東方向に盤踞していた額田部氏、古代の文書から斑鳩に居たとされる大原氏など多くの説があります。
【質問2】当時としては、石室は大きい方ですか?
〖回答2〗大きいほうです。6世紀後半期においては、大和だけでなく、全国的に見ても大型の横穴式石室となっています。
【質問3】石棺が意外と赤くないのですが、発見当初はもっと赤かったのですか?
《回答3》発見当初の石室内は滞水していましたが、第3次調査において水を抜いており、石棺の石材への保水状態が現在とは異なっています。現在は結露による表面への濡れはありますが、墳丘からの石室への浸水については、整備工事で墳頂部の防水工事を行いましたので、整備前のような環境とは違っています。また、写真の写り方や見つかった時の衝撃度がありましたので、そうしたものが影響しているのかもしれません。ちなみに、第2次調査の調査前に撮影した石棺の写真は、現在に近い色調をしています。
【質問4】なぜ前方後円墳ではなく円墳なのでしょうか?
《回答4》6世紀の近畿地方では、前方後円墳がだんだん造られなくなり、円墳または方墳が多くなってきます。ただし、横穴式石室の規模に比例するように、藤ノ木古墳のように大型の円墳となっています。
藤ノ木古墳が造営された6世紀後半期では、大和における皇族や豪族の古墳では前方後円墳が造られなくなってきた時期にあたります。古墳時代を形成した大和王権の共通した墳墓形態として採用されて、その枠組みに組しているシンボル的な役割を果たしてきた前方後円墳は、横穴式石室の導入や副葬品の変化等によって、その役割を終えていきました。
【質問5】石室の上部や天井の様子を映していただけませんか?
《回答5》今回も映したつもりでしたが、少なかったでしょうか。次の機会にはもう少し工夫して長い時間を映してみたいと思います。
【質問6】他の古墳では2つの石棺を石室内に納めている事例もありますが、なぜ藤ノ木古墳は石棺が1つなのでしょうか?
《回答6》かなりの権力を有したと思われる二体の埋葬者に対して一つのお棺であることは、藤ノ木古墳の被葬者を考える上で重要な視点と考えられています。
質問者のおっしゃっておられるように、古墳は当時の権力者のお墓でありますので、そういった方が複数で葬られる際には、石棺に限らず木棺など別のお棺を用意して、同じ横穴式石室に納められることがあります。それらの多くは、親族等の近しい関係にある者が死亡時期を異にして同じ古墳に葬られることが求められた場合に、別のお棺によって石室内に運ばれることは十分に想像できるでしょう。
さて、藤ノ木古墳の二体の被葬者は、石棺内の調査の結果、同時に葬られたと推定されています。しかし大きな権力を有したはずの藤ノ木古墳の被葬者においては、本来は別々のお棺に埋葬されるべきものが、何らかの理由によって、同じ棺に葬られることになったようです。
なお、この二体の埋葬者の人骨の鑑定結果は、ともに男性と推定されています。そうすると『日本書紀』における「阿豆那比罪」のエピソードにおいては、古代では同性の同じお棺への埋葬は忌避されたようですので、もし同性であるならば、藤ノ木古墳の場合において何らかの特殊な事情があったのかもしれません。
【質問7】裏側の隙間も見られますか?カメラ入れますか?
《回答7》カメラの長さや照明の関係で、あの程度が限界で難しかったですが、次の機会にはもう少し奥が見られるように工夫をしてみたいと思います。
【質問8】天井石など、石室内をぐるりで見ることは可能でしょうか。
《回答8》石室内は全体を見てもらえるように努めたつもりでしたが、いかがでしたでしょうか。次の機会には、石室内をぐるっと見渡せるように努めてみたいと思いますので、ご期待ください。
【質問9】石室の中が水浸しと言われていましたが、装飾品の腐食具合はどの程度でしたか?赤く塗られていた素材は漆でしたでしょうか?
《回答9》石室内は水が溜まったとする考えもありますが、石棺の石材が凝灰岩なので、石棺の表面に雨水が多く落ちることにより、石棺内に水が蓋あたりまで滞水する状態が生じたものと思われます。
ライブ配信で説明しましたのは、石棺内に水が溜まっていたことを指し示していると解釈しますと、水中に金属製品が沈んでいたことで錆が進行して腐食は進んでいました。
石棺の内外を赤く塗布していたものは、「水銀朱」です。その塗布する際には、膠(にかわ)などが混ぜられたと考えられていますが、漆は確認されていません。
【質問10】被葬者は誰でしょうか?
《回答10》わかっていません。詳しい内容は、問1の答えをご参照ください。
【質問11】映像を見ていて思ったのですが、雨漏りしていますか?床面の砂利は、当時のままなのでしょうか?
《回答11》問3でも触れましたが、石棺が濡れているのは、天井部から雨漏りするのではなく、結露によるものです。ただし、近年のゲリラ豪雨により、整備において防水処理をした墳頂部からの浸水ではないのですが、墳丘の横からの浸水で石室の床に水が一時的ではありましたが、深さ約10cm程度滞水したことがありました。
玄室および羨道の床の礫については、発掘調査と整備事業の際に外されて、もとあったように戻したものです。
【質問12】法隆寺のすぐ近く所在している事に理由はあるのでしょうか?
《回答12》法隆寺が建立されるのは、藤ノ木古墳が造営された後のことです。ですから、藤ノ木古墳造営時に対して直接的に影響したということはないのですが、後に飛鳥とともに飛鳥文化の華が咲いた斑鳩は、聖徳太子の移住先に選ばれたことから、藤ノ木古墳の造営されていた頃には注目される場所となっていたのかもしれません。なお、聖徳太子自身は、恐らく藤ノ木古墳の被葬者が誰であるかについてご存知だったものと思われます。
【質問13】石櫃(石棺)の蓋はかなりの重量に見えますが、狭い石室の中で、当時どのように上に重ねる事ができたと考えられますか?先に石棺の蓋を閉めてから、石室を作ったのでしょうか?
《回答13》石棺の棺蓋の重量は、約1.5tと推定されています。
石棺の短い側面を前面にして、羨道を通って玄室に運び入れたところで、現在見ているように石棺の長い側面を正面にするには、石棺を玄室内で90度回転させることが必要です。しかし、玄室の幅と石棺の対角線の長さは、後者の方が長く、玄室内で回転させることは不可能ですので、蓋を閉めた状態の石棺を置いてから、石積みをして石室が構築されたと考えられています(※西側の石棺と石室の側壁の隙間は15cmしかない点や、棺蓋の東側手前のコーナー部が欠けているのは石積み作業中のアクシデントであった可能性がある点等)。なお、石室内で三又を組むなどして石棺の蓋の開け閉めができた可能性はありますが、石室構築作業中には棺蓋は閉められている必要があると考えられ、殯などが行われて骨化する前の状態が保たれていますので、遺体(含む副葬品)が入れられた状態で石室が構築された可能性があります。
遅くなりましたが、いただきました「質問」への回答を掲載いたします。
回答者は、当日のナビゲーターの斑鳩町教育委員会 生涯学習課参事・平田政彦氏です。
【質問1】被葬者は誰だと思いますか?
〖回答1〗藤ノ木古墳の被葬者については明らかではなく、現在でも誰かわかっていません。
そうしたなか、色々な方による被葬者の推理がなされていて、被葬者説については大きく三つに分かれており、①皇族説、②大豪族関係者説、③斑鳩に関係すると考えられている中小豪族説があります。
①説には、法隆寺末寺の宗源寺に伝わる絵図(宝積寺境内図)に藤ノ木古墳を「陵」として「崇峻天皇御廟」と記していることから崇峻天皇とする説があります。しかし、『延喜式』には、崇峻天皇の御陵は「倉橋(現在の奈良県桜井市)」にあるとされていて、現在も宮内庁が治定している御陵があります。平安時代にまとめられた『延喜式』にそう記されていないことや、考古学からの推定では現在の崇峻天皇陵付近に所在する赤阪天王山古墳ではないかと考えられています。また、赤阪天王山古墳の大型の横穴式石室には刳抜式家形石棺が残されていて、藤ノ木古墳の発掘調査の結果では、石棺内の二人の被葬者は骨化するまでに、同時に葬られていることが確認されていて、改葬されたものではないことが明らかとなっていますので、少し無理があるものと思われます。
このほかに、古墳研究の第一人者の白石太一郎氏や、開棺(第3次)調査において担当者であった前園実知雄氏等による穴穂部皇子説があります。『日本書紀』によると穴穂部皇子は、蘇我氏系の皇子で、敏達天皇崩御後に次期天皇(大王)に就こうと行動を起こしますが、最終的に蘇我氏の協力が得られなかったことから、その政敵である物部氏に協力を求めたため蘇我馬子に暗殺されました。そしてその翌日には、穴穂部皇子の弟とされる宅部皇子がこのことに関わっていたとされて暗殺されていることから、これら両皇子の合葬説があります。藤ノ木古墳の造営年代、大型の横穴式石室や刳り抜き式家形石棺を採用している点、大王クラスに匹敵すると考えられるくらい豪華な副葬品等から、被葬者として矛盾がないと考えられていて、二人とも暗殺という非常事態であったこととが石棺内の同性の二人埋葬の状況と状況が合ってくるとするものです。しかし、この皇子がなぜ飛鳥付近でなく、斑鳩の地に葬られることになったのかといった造営の背景が明らかではないので、この説も有力だと言われていますが、決め手に欠きます。
②説は、蘇我氏の墳墓が方墳系であるのに対して、物部氏の墳墓が円墳系であることや、斑鳩の地が、大和川右岸の交通の要衝にあったことを勘案し、当時の大和川水系を掌握していたと言われている物部氏系の関係者(※固有名詞は示されていません)とする説で、同じような推定から、物部氏との戦いに勝利した蘇我氏が支配したと考えられ、蘇我氏系の関係者とするものです。
③説は、聖徳太子の妃の一人であった膳菩岐々美郎女の出自氏族である膳氏に膳臣斑鳩という人物がいたことや、斑鳩に盤踞していたとし、聖徳太子の斑鳩への移住する背景となっていたとされる膳氏、藤ノ木古墳の所在地が古代における平群郡山部郷にあることからの山部氏、立派な金銅製馬具が出土したことから斑鳩の南東方向に盤踞していた額田部氏、古代の文書から斑鳩に居たとされる大原氏など多くの説があります。
【質問2】当時としては、石室は大きい方ですか?
〖回答2〗大きいほうです。6世紀後半期においては、大和だけでなく、全国的に見ても大型の横穴式石室となっています。
【質問3】石棺が意外と赤くないのですが、発見当初はもっと赤かったのですか?
《回答3》発見当初の石室内は滞水していましたが、第3次調査において水を抜いており、石棺の石材への保水状態が現在とは異なっています。現在は結露による表面への濡れはありますが、墳丘からの石室への浸水については、整備工事で墳頂部の防水工事を行いましたので、整備前のような環境とは違っています。また、写真の写り方や見つかった時の衝撃度がありましたので、そうしたものが影響しているのかもしれません。ちなみに、第2次調査の調査前に撮影した石棺の写真は、現在に近い色調をしています。
【質問4】なぜ前方後円墳ではなく円墳なのでしょうか?
《回答4》6世紀の近畿地方では、前方後円墳がだんだん造られなくなり、円墳または方墳が多くなってきます。ただし、横穴式石室の規模に比例するように、藤ノ木古墳のように大型の円墳となっています。
藤ノ木古墳が造営された6世紀後半期では、大和における皇族や豪族の古墳では前方後円墳が造られなくなってきた時期にあたります。古墳時代を形成した大和王権の共通した墳墓形態として採用されて、その枠組みに組しているシンボル的な役割を果たしてきた前方後円墳は、横穴式石室の導入や副葬品の変化等によって、その役割を終えていきました。
【質問5】石室の上部や天井の様子を映していただけませんか?
《回答5》今回も映したつもりでしたが、少なかったでしょうか。次の機会にはもう少し工夫して長い時間を映してみたいと思います。
【質問6】他の古墳では2つの石棺を石室内に納めている事例もありますが、なぜ藤ノ木古墳は石棺が1つなのでしょうか?
《回答6》かなりの権力を有したと思われる二体の埋葬者に対して一つのお棺であることは、藤ノ木古墳の被葬者を考える上で重要な視点と考えられています。
質問者のおっしゃっておられるように、古墳は当時の権力者のお墓でありますので、そういった方が複数で葬られる際には、石棺に限らず木棺など別のお棺を用意して、同じ横穴式石室に納められることがあります。それらの多くは、親族等の近しい関係にある者が死亡時期を異にして同じ古墳に葬られることが求められた場合に、別のお棺によって石室内に運ばれることは十分に想像できるでしょう。
さて、藤ノ木古墳の二体の被葬者は、石棺内の調査の結果、同時に葬られたと推定されています。しかし大きな権力を有したはずの藤ノ木古墳の被葬者においては、本来は別々のお棺に埋葬されるべきものが、何らかの理由によって、同じ棺に葬られることになったようです。
なお、この二体の埋葬者の人骨の鑑定結果は、ともに男性と推定されています。そうすると『日本書紀』における「阿豆那比罪」のエピソードにおいては、古代では同性の同じお棺への埋葬は忌避されたようですので、もし同性であるならば、藤ノ木古墳の場合において何らかの特殊な事情があったのかもしれません。
【質問7】裏側の隙間も見られますか?カメラ入れますか?
《回答7》カメラの長さや照明の関係で、あの程度が限界で難しかったですが、次の機会にはもう少し奥が見られるように工夫をしてみたいと思います。
【質問8】天井石など、石室内をぐるりで見ることは可能でしょうか。
《回答8》石室内は全体を見てもらえるように努めたつもりでしたが、いかがでしたでしょうか。次の機会には、石室内をぐるっと見渡せるように努めてみたいと思いますので、ご期待ください。
【質問9】石室の中が水浸しと言われていましたが、装飾品の腐食具合はどの程度でしたか?赤く塗られていた素材は漆でしたでしょうか?
《回答9》石室内は水が溜まったとする考えもありますが、石棺の石材が凝灰岩なので、石棺の表面に雨水が多く落ちることにより、石棺内に水が蓋あたりまで滞水する状態が生じたものと思われます。
ライブ配信で説明しましたのは、石棺内に水が溜まっていたことを指し示していると解釈しますと、水中に金属製品が沈んでいたことで錆が進行して腐食は進んでいました。
石棺の内外を赤く塗布していたものは、「水銀朱」です。その塗布する際には、膠(にかわ)などが混ぜられたと考えられていますが、漆は確認されていません。
【質問10】被葬者は誰でしょうか?
《回答10》わかっていません。詳しい内容は、問1の答えをご参照ください。
【質問11】映像を見ていて思ったのですが、雨漏りしていますか?床面の砂利は、当時のままなのでしょうか?
《回答11》問3でも触れましたが、石棺が濡れているのは、天井部から雨漏りするのではなく、結露によるものです。ただし、近年のゲリラ豪雨により、整備において防水処理をした墳頂部からの浸水ではないのですが、墳丘の横からの浸水で石室の床に水が一時的ではありましたが、深さ約10cm程度滞水したことがありました。
玄室および羨道の床の礫については、発掘調査と整備事業の際に外されて、もとあったように戻したものです。
【質問12】法隆寺のすぐ近く所在している事に理由はあるのでしょうか?
《回答12》法隆寺が建立されるのは、藤ノ木古墳が造営された後のことです。ですから、藤ノ木古墳造営時に対して直接的に影響したということはないのですが、後に飛鳥とともに飛鳥文化の華が咲いた斑鳩は、聖徳太子の移住先に選ばれたことから、藤ノ木古墳の造営されていた頃には注目される場所となっていたのかもしれません。なお、聖徳太子自身は、恐らく藤ノ木古墳の被葬者が誰であるかについてご存知だったものと思われます。
【質問13】石櫃(石棺)の蓋はかなりの重量に見えますが、狭い石室の中で、当時どのように上に重ねる事ができたと考えられますか?先に石棺の蓋を閉めてから、石室を作ったのでしょうか?
《回答13》石棺の棺蓋の重量は、約1.5tと推定されています。
石棺の短い側面を前面にして、羨道を通って玄室に運び入れたところで、現在見ているように石棺の長い側面を正面にするには、石棺を玄室内で90度回転させることが必要です。しかし、玄室の幅と石棺の対角線の長さは、後者の方が長く、玄室内で回転させることは不可能ですので、蓋を閉めた状態の石棺を置いてから、石積みをして石室が構築されたと考えられています(※西側の石棺と石室の側壁の隙間は15cmしかない点や、棺蓋の東側手前のコーナー部が欠けているのは石積み作業中のアクシデントであった可能性がある点等)。なお、石室内で三又を組むなどして石棺の蓋の開け閉めができた可能性はありますが、石室構築作業中には棺蓋は閉められている必要があると考えられ、殯などが行われて骨化する前の状態が保たれていますので、遺体(含む副葬品)が入れられた状態で石室が構築された可能性があります。