法隆寺
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斑鳩を巡る

太子ロマンの道

日本書紀に、推古元年(593)、厩戸豊聡耳皇子を皇太子に立て、政務をゆだねたと記されています。後、推古13年(605)、聖徳太子は斑鳩宮に移られます。斑鳩宮(現在の東院・夢殿)のそばに法隆寺を創建された太子により、7世紀初頭「斑鳩文化」が花開きました。

斑鳩の里 観光案内所 法隆寺iセンター

法隆寺iセンターは「歴史街道」の情報や県下の観光情報を提供するほか、法隆寺をはじめとする斑鳩の里を案内します。また、日本政府観光局(JNTO)認定外国人観光案内所カテゴリー1を取得しています。
建物は斑鳩の里の民家をイメージさせる瓦葺き二階建てで、屋根の勾配に「むくり」とよばれるふくらみをもたせています。二階部分の「むしこ窓」も印象的です。

徒歩3分約250m

ほうりゅうじ法隆寺 〈法隆寺周辺エリア〉

用明天皇のご遺志を継いで、607年に推古天皇と聖徳太子によって建立されたと伝わっています。世界最古の木造建築物と数多くの寺宝を持ち、わが国最初の世界文化遺産として1993年に登録されたことでも有名です。
所持する国宝は、建造物も合わせて39件と、世界に誇る素晴らしい空間を作り出しています。

徒歩4分約300m

ほうりゅうじ ゆめどの法隆寺 夢殿 〈法隆寺周辺エリア〉

この地は、聖徳太子が住まわれた斑鳩宮の跡地で、太子の死後、遺徳を偲んで建立されました。夢殿は、法隆寺東院伽藍の中心となる八角円堂の建物です。内部には、本尊の国宝救世観音像(聖徳太子等身の像と伝えられている)が、長い間秘仏として人々の目から閉ざされてきましたが、明治17年に開扉されました。堂内には、東院の復興に尽力した行信僧都と、平安時代初めに東院を修理した道詮律師の座像があり、いずれも国宝に指定されています。

徒歩1分約80m

ちゅうぐうじ中宮寺 〈法隆寺周辺エリア〉

中宮寺は、聖徳太子が母の穴穂部間人皇后のために建立されたと伝えられている、わが国最古の尼寺です。 本堂に安置されている国宝の木造菩薩半跏像は、神秘的なアルカイックスマイルをたたえ、世界三大微笑のうちの一つと名高い、優しい仏さまです。春には、山吹の花が境内に咲き誇ります。

徒歩7分約550m

しせき ちゅうぐうじあと史跡 中宮寺跡 〈三井・岡本周辺エリア〉

現在の中宮寺は法隆寺東院の東側にありますが、元は450m東方に所在していました。現在の中宮寺と区別するため創建中宮寺を中宮寺跡と呼んでいます。
現在でも塔、金堂の基壇が土壇状の高まりとなり残っています。
これまでの発掘調査の結果から、塔、金堂が南北に並ぶ四天王寺式伽藍配置をしていたことが明らかとなっています。これは聖徳太子が建立した斑鳩寺(若草伽藍)と同じ建物配置をしています。
ただし、講堂や回廊は見つかっていないことから未完の寺であったようです。
中宮寺跡全域は、平成2年と平成13年に国史跡の指定を受けました。
現在は、史跡公園として整備され、特に秋のコスモスの時期には、多くの人が訪れる憩いの場となっています。

徒歩5分約400m

こまづかこふん駒塚古墳 〈上宮遺跡公園周辺エリア〉

国道25号線の南側の平地部分に所在します。前方部端部が完全に削り取られているため、墳丘規模は確定していませんが、全長60m級の前方後円墳と考えられています。斜面に敷かれた葺石と、埴輪、土師器が出土し、それらの遺物から、古墳の造営時代は4世紀後半頃と推定されています。埋葬施設については「墓壙(ぼごう)」の掘り下げを行っていないため明らかではありませんが、墳丘に乱れがないことから、未盗掘である可能性もあげられています。駒塚の名前の由来は、林宗浦『和州旧跡幽考』(江戸期)に駒塚とあることからで、古墳名は聖徳太子の愛馬である「黒駒」を葬ったとの伝承に由来します。
駒塚古墳の南側には、太子の愛馬黒駒の世話をしたという、太子の従者・調子麿の墓と伝わる調子丸古墳が並んでいます。
※古墳に立ち入ることはできません。

徒歩4分約300m

ちょうしまるこふん調子丸古墳 〈上宮遺跡公園周辺エリア〉

聖徳太子の従者であり、愛馬「黒駒」の世話をしていたという調子麿を埋葬したという伝承によって命名された古墳です。
古墳はほとんど裾を削り取られ、水田化されているため、現状は径14m程度ですが、古墳周囲での発掘調査から直径30m級の円墳と考えられています。平成12年度の発掘調査では、馬具などの表現を施した精巧な作りの土馬の頭部が出土しました。その他、円筒埴輪や器材埴輪なども出土し、それらの年代から5世紀中頃の造営とされています。
また、江戸期の『大和名所図会』の絵図にあり、古くから著名な古墳であったようです。
太子の愛馬黒駒の墓との伝承がある駒塚古墳の南約100mに位置し、南側からは、二つの古墳を同時に眺めることができます。
※古墳に立ち入ることはできません。

徒歩10分約800m

たかやす・てんまじんじゃ高安・天満神社 〈上宮遺跡公園周辺エリア〉

古くは富雄川が高安集落の東を流れていたとされ、「富の小川村」と呼ばれていたといわれています。
この村は平安の歌人の在原業平(825-880年・伊勢物語で有名)とのゆかりが深く、村人が業平のことを忘れないように、高安村と名を改めたという話が残されています。
業平に関わる伝説としては、「業平が河内(現、大阪府の八尾市にいる河内姫のもとへ)通いをされ、
業平道の道筋に当るこの高安村をよく通った」といいます。このとき村の美人は、美男の業平に連れて行かれるというので、顔に鍋墨を塗ってわざとみにくい姿にした…という伝説が残されています。
また、天満神社の鳥居の外に石碑があります。その一つ、大日堂跡の碑は、神社の西に隣接して大日堂というお堂がありましたが老朽化により取り壊され、1971年に守ってきた高安の人々によって建てられました。
この石碑の右隣には、富雄川の業平橋西詰にあったと思われる道標が移されて建っています。

徒歩6分約450m

なりひらみち業平道

この道は平安の歌人で「伊勢物語」の主人公として、百人一首で有名な在原業平(825~880年)が、天理市の櫟本から大和郡山市~安堵町~平群町を通り、河内の高安(現在の大阪府八尾市)まで河内姫のもとへ通ったとされている道です。
いつからかこの道は、業平道の名で呼ばれ、道筋の本町には、多くの伝説を今に伝えています。
ちはやふる神代もきかずたつた川 からくれないに水くくるとは
は、業平の代表的な和歌として広く知られています。

徒歩4分約300m

かみやいせきこうえん上宮遺跡公園 〈上宮遺跡公園周辺エリア〉

奈良期の大型の掘立柱建物群が発見されたところに公園が造られました。また、平城京で使われた瓦と同じものが多数出土しました。このようなことから、称徳天皇が767(神護景雲元)年に「飽波宮」に行幸し2日間滞在した(『続日本紀』)と伝えられ、当時の朝廷と深い関係のあった遺跡とみられています。
なお、聖徳太子の飽波葦垣宮の伝承地ともいわれており、歌碑も5基、設置されています。
すぐ近くに、太子が晩年を過ごし薨去されたとされる成福寺や、太子の従者と愛馬を葬ったという古墳も2基あり、晩年の太子を偲ぶことができるエリアとなっています。

徒歩1分約80m

じょうふくじ(でん・あしがきみや)成福寺(伝・葦垣宮) 〈上宮遺跡公園周辺エリア〉

成福寺は、富雄川西岸の上宮遺跡公園の南にあり、本堂は朽ち果ててなくなりフェンスの中には、壊れかけた境内社の子守神社と、「太子道」と彫られた石碑や、成福寺の楼門の前にあった石標だけが残っています。
この周辺は『大安寺伽藍縁起』にある「飽波宮葦垣宮(あくなみあしがきのみや)」の伝承地で、聖徳太子が膳妃と晩年を過ごし、相次いで亡くなられた場所であり、その跡に建てられたのが成福寺といわれています。
明治末期には、事実上廃寺になったとみられていますが、本尊の木造聖徳太子立像(孝養像)は鎌倉時代の秀作で、重要文化財に指定されています。また奈良国立博物館のX線CTスキャン調査により、この仏像内部に木造菩薩半跏像等が納入されていた、というニュースが2021年2月に発表されたのも記憶に新しいところです。
※立ち入ることはできません。

徒歩10分約800m

おきどめ・すさのおじんじゃ興留・素盞嗚神社 〈上宮遺跡公園周辺エリア〉

興留集落に所在し、由緒は不祥ですが、元は集落の鎮守社でした。
玉垣の中に素戔嗚命を祀り、八幡・天照大神・春日の三社があり、石灯は貞享(1685)・狛犬は安政(1857)の銘があります。
本殿は一間社春日造の桧皮葺、室町時代後期のもので、県の重要文化財に指定されています。

徒歩10分約800m

斑鳩の里 観光案内所 法隆寺iセンター

法隆寺iセンターは「歴史街道」の情報や県下の観光情報を提供するほか、法隆寺をはじめとする斑鳩の里を案内します。また、日本政府観光局(JNTO)認定外国人観光案内所カテゴリー1を取得しています。
建物は斑鳩の里の民家をイメージさせる瓦葺き二階建てで、屋根の勾配に「むくり」とよばれるふくらみをもたせています。二階部分の「むしこ窓」も印象的です。

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