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斑鳩を巡る
藤ノ木・業平つれづれの道
大陸文化の香りを漂わせ、今もその謎を秘める藤ノ木古墳から始まって、 在原業平のロマンあふれる伝説の地まで、歴史へのタイムスリップと、 平安の恋心に触れるつれづれの道です。斑鳩から外へのびる街道筋の古道を、中世・近世へとそぞろ歩きます。
徒歩4分約300m
うぉーなーとうウォーナー塔 〈法隆寺周辺エリア〉
法隆寺の西大門より築地塀に沿って、小路を登ると西円堂の八角屋根が見えます。その左手、少し小高いところ樹々に囲まれてウォーナー塔があります。
太平洋戦争の末期「貴重な文化財が多くある古都の奈良や京都を爆撃してはならない」と、当時のアメリカ大統領に直訴したといわれるウォーナー博士の慰霊碑です。
戦争末期のウォーナー伝説には種々の異論もありますが、日本人の間に文化財保護の意識を植えつけたという意味で大きな役割を果たしたといえます。その功績は、日本全国に6カ所も顕彰碑が建立されていることからも実証されます。
なお、並んでいるもう一つの五輪塔は、明治期の美術史家の平子鐸嶺(ひらこたくれい)のもので、鐸嶺塔と呼ばれています。
徒歩2分約150m
徒歩4分約300m
ふじのきこふん藤ノ木古墳 〈法隆寺周辺エリア〉
藤ノ木古墳は、法隆寺の西約350mに位置する6世紀後半の円墳です。完全未盗掘の状態で発掘され、両袖式の横穴式石室内に納められた朱塗りの家形石棺が確認されました。また、金銅製透彫鞍金具に代表される装飾性豊かな馬具の出土によって一躍有名になり、二人の人物が玉纏の太刀や金銅製の冠・履など豪華な副葬品とともに埋葬されていることが明らかになりました。古墳の築造時期から、被葬者は聖徳太子の身近な人であると考えられています。平成3(1991)年には国史跡に指定され、続いて平成4(1992)年には、多くの出土品が国宝に指定されました。また、斑鳩文化財センターでは、常設展にて、藤ノ木古墳出土品の精巧なレプリカを展示しておりますので、合わせてご覧いただくと理解を深めていただくことができます。さらに、春と秋には、石室特別公開が開催されています。大きな花崗岩を用いた石室内に入れるチャンスです。縄掛突起付きの蓋石のある家形石棺の実物を見ることもできます。
徒歩20分約1.3km
徒歩5分約400m
徒歩4分約300m
しかづか鹿塚 〈龍田周辺エリア〉
鹿塚は、径約15m・高さ約4mの古墳で民家に取り囲まれていて、頂部に「鹿塚」と彫られた大きな石碑が建っています。
伝説によると、太子43歳の項、太子の舎人の犬が、鹿と喧嘩をし、犬が鹿の脛を食い折り、太子が傷の手当てをして逃がしてあげました。数日後、再び犬が鹿を追いかみつき、鹿を噛み殺してしまいました。
太子が夢に見たところ、この鹿と犬は過去の宿業で、鹿は正妻・犬は側室で、その昔正妻が側室の子の足を折ったことがあったという宿縁によるものといいます。
太子は、うらみの深さをいつまでも伝えることがないようにと、死んだ鹿の冥福を祈って墓を造ってあげられ、時が流れて犬もこの世を去りました。太子は鹿の墓のそばに犬の墓も造ってあげられたといいます。
今の鹿塚の碑は地元の方によって、この伝説を忘れないようにと建てられたものです。
徒歩4分約300m
徒歩2分約150m
徒歩6分約450m
徒歩1分約80m
ひきりじぞう(ままこじぞう)日切地蔵(継子地蔵) 〈法隆寺周辺エリア〉
日切地蔵は、斑鳩町役場前の国道の向かい側の民家の間にあり、継子地蔵ともいわれています。このお地蔵さまは、元はもう少し西の旧街道筋にあったようですが、明治の中ごろ今の場所に移されました。
小林一茶の『おらが春』には、このお地蔵さまのことが書かれています。
むかし、継子が母親にいじめられ10日ほど食事を与えてもらえませんでした。そんな折に『お前、あの地藏さんに飯を食べさせたらお前にも食べさせてやる』と、言われたので継子は一心不乱になって『どうかお地蔵さま、ご飯を食べてください』と哀願しました。すると不思議なことに、お地蔵さんが大きな口を開けて、むしゃむしゃとご飯をおたべになりました。これを知った継母の邪心も急に改まり、以後は、継子を実の子と同様にかわいがったということです。
徒歩1分約80m
徒歩4分約300m